クラスはよみがえる

  • 2008/03/03(月) 22:06:43

野田俊作・萩昌子(1989)を読む。 ☆☆☆

本書は,アドラー心理学の知見を学校教育に生かすことの必要性を教師に訴えるものです。
下の本と同趣の内容ですが,教師が読むには多少きつい文体で書かれています。

具体的なエピソードも添えて,著者の主張がされていることもあり,非常に分かりやすかったです。
ただ理解できるものもあれば,う〜ん・・・というのも正直あります。

注目を引こうとする子どもへの対応の仕方や,不適切な行動をとる生徒に対して,個人の問題として
ではなく,クラス経営の問題として対応するというのは,良くも悪くも私の発想にはありませんでした。
一方で,例えば子どもを絶対に罰するなとか教師と生徒は友だちという考え方などにはなじめません。

うーん。まだ理解できるほど消化できていないのか。

アドラー心理学を生かした学級の再生

  • 2008/03/03(月) 21:51:38

福永敬(2006)を読む。 ☆☆

本書は,アドラー心理学の知見を学級経営に生かすことを提言するものです。

この種の本を初めて読んだせいかもしれませんが,
アドラー心理学の全体像が見えず,今ひとつ理解が進みませんでした。
また具体的なエピソードがあまりなかったのも残念でした。

他の著書からの引用をページの上に示したのも,本書を読みにくくしているように思います。

アドラー心理学を生かした学級の再生―立ちすくむ学級・学校への提言 (新時代の教育改革)

カリスマ体育教師の常勝教育

  • 2008/02/11(月) 02:32:52

原田隆史(2003)を再読。 ☆☆☆

本書は,中学の陸上指導を通して,態度教育やメンタルトレーニングの重要性を主張し,
またその指導技術が生まれたプロセスや成果についてまとめ,体系化します。

原田先生の熱さというのは,徹底指導という部分に尽きると思います。
特に「目標を書かせることで自己イメージを描かせる」ための具体的かつ徹底的な指導は見事です。
ただその一方で,誰もがこのようなやり方を,真似することはできないのではとも思います。
文体からも感じたのですが,教師のキャラに影響が大な気がしました。

個人的に興味深かったのは,評価する際には,○か×か,△は「おまけ教師」のすること,というくだり。
確かに,若手教師とベテラン教師の違いの1つとして,△の有無というのは,
あるような気がするし,そこに気づけるかどうかということ自体が大切だよなぁと思いました。

カリスマ体育教師の常勝教育

ココロでわかると必ず人は伸びる

  • 2008/02/09(土) 17:25:02

木下晴弘(2004)を再読。 ☆☆☆

本書は,著者の塾指導の経験をもとに,人を動かすには「感動」させることが大切だと主張します。
話しかけるような文体で書かれているので,読み易かったです。

いろんなエピソードがあってそれなりに面白かったのですが,
具体的な教科指導については企業秘密なのか,全く触れずじまいで物足りず。
本当に教育を良くしたいという趣旨で書くなら,やはりそこを共有すべきでは?
塾業界と学校教育の溝を感じた一冊です。

人をやる気にさせるための,そして自分がやる気になるためのネタが欲しい。。

ココロでわかると必ず人は伸びる

学力を問い直す

  • 2007/12/10(月) 01:23:41

佐藤学(2001)を再読。 ☆☆☆

下の本はイマイチでしたが,この本は良書だと思います。
・学力の実態は,マスコミで騒がれているほど明らかになっていない
・「学力低下」論は,学力の質については問うてない
・教科書検定では,学習指導要領を「最低基準」として扱っていないという矛盾
・「学力低下」と言われているものは,「カリキュラムの内容」の低下であることが多い

などを本書は主張します。

個人的に興味深かったのは,
・学びにおいて大切なのは,下から積み上げるという発想ではなく,上から引き上げるという発想
・習熟度別は,多様な考え方を学ぶ場を奪っている。やっている国は日本だけ。

これまで一万近い教室を観察してきましたが,教師1人の指導力で低学力を克服した子どもは皆無と言って
よいのに対して,子どもたちの学び合う関わりの中で低学力を克服した子どもが数え切れないほど存在する
ことに気づかされます。
(p60)

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

「学び」から逃走する子どもたち

  • 2007/12/10(月) 01:06:53

佐藤学(2000)を再読。 ☆☆

本書は,「いじめ」「不登校」「学級崩壊」「少年犯罪」などの問題は,どれも一部の子どもの現象であり,
本当に見るべき教育課題は,子どもの「学び」からの逃走であるとします。

子どものこの変化の原因を,著者は,日本の教育の近代化にあるとします。
この辺りはよく耳にする議論なので,まぁそうなのかなぁと。

全体的な感想としては,一部の事実や意見を一般化しすぎではないかと。
他国との比較データなども本論で挙げるのは不適切のような気がしました。
そして一番気になったのは,本のタイトルにもなっている「学び」を
終章で「勉強」との比較において,初めて定義したこと。
遅すぎです。

「学び」から逃走する子どもたち (岩波ブックレット)

「学力低下」の実態

  • 2007/12/08(土) 01:33:12

苅谷・志水・清水・諸田(2002)を再読。 ☆☆☆

本書は,まず「学力」や学習状況の実態調査を独自に行うことで,何が問題であるかを浮き彫りにします。
その後,その問題を解決するために出来ることを議論します。

本書での調査を通して,なかなか興味深いデータが出ています。
・基礎学力の低下
・「ふたコブ化」現象
・塾に通う者と通わない者との格差
・家庭における文化的環境が子どもに及ぼす影響の格差

などです。

特に,出来る生徒と出来ない生徒との「格差」を問題視し,
その溝を埋めるための公教育のあり方について議論をします。

子どもたちの「学力」低下について議論する際に,
学校教育だけでなく,塾や家庭などの要因を調べている点については,同意するところです。
学力低下への批判を,「ゆとり」だけにしてしまっては問題があるでしょう。
何より「ゆとり」のせいにすれば,制度の問題として捉えられ,
新たに制度を変えない限り,学力が向上することはないと言ってしまうようなもの。
学力低下の原因の1つは,間違いなく個々の教師の教え方なのだから。

本書は,そういった点についても踏み込んでいるので,新たな問題意識が得られるように思います。
知識or体験という振り子(流行)に振られるのではなく,子どもたちの実態を大切にするということだと思います。


調査報告「学力低下」の実態 (岩波ブックレット)

学力低下と新指導要領

  • 2007/12/08(土) 01:21:35

西村和雄(編)(2001)を再読。 ☆☆

本書は,学力低下を防ぐために,新指導要領で展開される「ゆとり」教育に反対し,また署名運動も行います。
が,結局,その翌年には,導入されることになるのですが・・・

本書で出される学力低下の例は,算数・数学なので,今ひとつ実態がピンときませんでした。
あと,何をもって「学力」とみなしているのか,最後までよく分かりませんでした。
また,しばしば著者らが行う原因−結果の構図にかなりの飛躍を感じます。
結論ありきで話を進めてもらってもなぁというのが正直な感想です。

学力低下と新指導要領 (岩波ブックレット)

学力低下論争

  • 2007/10/03(水) 22:28:46

市川伸一(2002)を再読。 ☆☆☆

本書は,これまで議論されてきた「学力低下」問題についてメタ分析を行った上で,著者自身の見解を述べる。

そもそも「学力」は低下しているのか。
ここでいう「学力」とは,知識か,学習意欲か,考える力か。
「ゆとり教育」は失敗だったのか。

様々な疑問をもつテーマだが,私自身は「学力低下」については否定的である。
何故なら,「学力」がどんな能力を指そうとも,その低下を客観的に示すデータがないからである。
しかしながら,私自身の感覚では,子どもたちの「考える力」は十分ではないとも思っている。
低下云々ではなく,十分ではないという言い方の方が誤解を招かないだろう。
「考える力」が十分ではないというのは,つまりは「書く」という作業を学校教育でしてこなかったことを指す。
私は,卒論や修論を通して,「考える」=「書く」ことだと学んだので,
学校においても「書く」経験をさせることが重要だと考えている。
知識を下地に考える。
そのときに,十分な時間をかけて行っていける制度が「ゆとり」教育だと思っている。
ゆとり教育の失敗はその理念にではなく,具体的な手順を示せなかったことにある。

知識を知恵へ変えていけるような授業づくりを目指したいです。

声高な言説が一様に「国」の危機を問題にし,それ以外の声を発することが
まるではばかられることのように沈黙させられるとき,人はその時代の空気を疑うべきだ。
(p206)


学力低下論争 (ちくま新書)

みすずの学校と心の教育

  • 2007/08/13(月) 11:36:19

山口県長門市教育委員会(2002)を読む。

長門市の小中学校で行われている,みすずの詩を生かした授業実践の紹介。
様々な学校の紹介があるため,系統的に整理されているわけではないが,
特に小学校の授業アイディア集としてヒントになるでしょう。

私としては,みすずの詩と英訳詩の比較といった実践があっても面白いと思う。
最終的に,1つ1つの言葉に拘らせる詩を作らせることで,きっと教師の予想を超えるものが出てくるに違いない。

教えることの復権

  • 2007/06/21(木) 17:48:29

大村はま・苅谷剛彦・夏子(2003)を読む。

本書の特徴は,カリスマ国語教師大村はま先生の教え子である苅谷夏子氏,
つまり学習者の視点から授業を捉えている点である(前半部分)。
また,近年の「学び」の重要性を否定するわけでもないが,
「教えること」が希薄化しているのではないか,と本書は指摘する。
ここで,「教えること」というと一見「詰め込み教育」を想像してしまうが,
大村先生の授業は決してそうではなく,「支援あって指導なし」の問題点を浮き彫りにするものである。
つまり,振り子の両極端をとる立場ではなく,その中間点を目指そうというのだ。

本書は,その大部分が著者らの対談によって進められる。
私が読み進めていく上で,大きく感じるのは,大村先生の発言には,キリッとした譲れない信念がある。

話し合うことはない,言いたいことはないという人が,話し合いの席にいたらはじめから話にならない。
言いたくてしょうがないことが胸の中にあるようにしないと。それが準備時間ですね。(p75)

子どもがやりたいと言ったことをそのまま根拠にしてはだめ。人間,やりたいことをやるのも大事なことだけど,やりたくないことでも,やるべきならするようでないと世の中困ってしまうでしょう。(p88)

子どもに考えさせるのがいいことは決まっています。そんなことはあたりまえです。
でも,ヒントも出さないでいきなり,それはこの頭が考えるのよって言ってもねぇ。(p121)

決して,大村実践は「学び」を否定するものではないことが窺える。
「学ぶ力」や「考える力」をつけるために「教える」のである。
また,学校は大人になるための練習をする場であると捉えられ,
大人である教師が生徒を引っ張り上げる必要があるとする。
そして,それは決して「教える」ことなしに到達できない,と。

最後に,苅谷剛彦氏の主張が印象に残る。
何故勉強するのかの答えは個人のものなので,一人一人に納得できる共通の答えはない。
そうではなくて,何故教えるのか,について教師は考える必要がある。

教えることの復権

14歳の子を持つ親たちへ

  • 2007/06/12(火) 23:05:17

内田樹・名越康文(2005)を読む。

対談本であるため,話が飛んでしまうことが多く,ここで整理することも難しい。
なので,いつものように気になった箇所を主に引用していく。

人を殺すかどうかの一線を超えることについて,両氏は,道徳という「フィクション」を作り直そう,と提案する。
つまり,その一線というのは,「論理」で答えれるものではなく,
「フィクション」を作り,その中でしか感じれないものだということだと思う。
何故人を殺してはいけないか。
それは,殺してはいけないから,という物語を作るしかないんだと思う。
論理的な答えが存在すればいいのだが,私も上記以上に納得できる答えを聞いたことがない。

また最近の傾向として,親が子を道具化しているのではないか,と指摘する。
まぁ,親にしてみれば,手塩にかけて育てたという思いがあるだろうから,分からなくもないが。
ただ,その思いが一方的すぎると,子どものストレスになりかねないことは頭に入れておく必要がある。

さらに,最近の若者は「公共の感覚がなくなってきている」とする。

自分と関係ない人をどんどんどんどん排除していくっていう今の風潮は,
電車の中で平気で化粧する女の子とか,地べた座りをするような感覚とも繋がっている。
自分が人と共有している空間,あるいはどこまでが自分の身体の感覚なのか
っていうことが,どんどん狭まっている。(pp39-40)

結局,この自分たちさえ良ければという考えを教育する必要があるのだろう。
どうやって?
「みっともないから」の一言で片付けられるだろうか。

また感情を表現する言葉が,「むかつく」と「かわいい」に限定されており,言葉が幼稚化している。
ん〜,これについては,英語教育でも対応できそうだが・・・。

さらに,両氏は,ディべートは最低の教育法である,と述べる。
これは「コミュニケーション力」の斎藤氏と同じ主張である。
確かに,ディベートは,相手の挙げ足取りになってしまう傾向にある。
意見をぶつけるのもいいが,そこから何が生まれるかと思うと,
嫌な人間だけなのかもしれない。

後は,なるほどと思わされた引用である。

情緒をうまく使いこなせる人が知識人である(p83)

教養とは「何を知らないか」を知ること。

ルーティーンというのは植木鉢の土の部分なんです。土の部分っていうのは,
同じことを繰り返していくと練れてきて。そうすると初めてそこから木が生えてくるんです。
これがないと何も生えやしないんです。ところがみんな土壌を作らないで花だけ咲かせようとする。
そんなの無理ですよ。(p199)

本書は,親への教育書である。
学校は子どもを教育する場であるが,親への教育も必要になってきたということか。
ん〜,何でもかんでも学校へ押し付けるのは止めてほしいが・・・
また,本書の主張は,諏訪氏の「オレ様化した子どもたち」の考えに似ている。
自分たちの理屈を通す,公共の感覚がない,オレ様化した子どもをどのようにしつけるか。
それが教育の本質であり,また役割なのかもしれない。
学校だけが頑張ってもダメだが,子どもとしては親を選べないので,やはり学校が頑張らないとダメなのか。

14歳の子を持つ親たちへ

教育大混乱

  • 2007/06/12(火) 22:16:37

プロ教師の会(編)(2007)を読む。

「オレ様化した子どもたち」の諏訪哲二を始めとしたプロ教師の会のメンバーが,
近年の教育の変化について論じる。
ゆとりvs学力向上,いじめ問題,愛国心論議,教育再生会議など,ホットな話題こそ多いものの,
内容については表面的な考察に終わっているものが多いように思われた。
メンバーの中でも,意見が一致しているとは思えない箇所も中には窺える。

興味深かった内容は,
8章の「『愛国心』は教育を再生するキーワードになり得ない」(藤田敏明)と
11章の「教育を経済や政治のことばだけで考えてホントに大丈夫か」(諏訪哲二),の2つ。
特に,諏訪哲二の主張は鋭く,興味深い。
ダメ教師を排除しようとする安部首相の政策について,

すぐれた人もすぐれてない人もいて教師は構成されるし,それでいいのである。(p210)

教師は生徒のために生きるのではなく,教師という生き方を生き切ることによって
かすかに生徒の役に立てるかどうかが勝負なのである。自己をゼロまたはマイナスにして
「相手のために」と立てられる理屈はナッシングである。(p210)

と述べる。
夜回り先生を教師としない,同氏の主張がここに窺える。
また,学校と塾の区別についても,同氏は明確に述べる。

塾は「学ぼうとする者」が知識を学びに通うところであるのに対し,
学校は子どもの個体を社会的個人に向かうべき「学ぼうとする者」に変身させるところである。(p213)

近年は,塾の役割も多様化しているようであるが,基本的な考え方としては,上の主張は間違っていないと思う。
学力向上か,人間形成か。
そのどちらもバランスよくというのが大切なのかもしれないが,
以前は前者寄りの考えであった私が,後者の考えに惹かれる最近である。

教育大混乱

教育力

  • 2007/06/07(木) 17:34:01

斎藤孝(2007)を読む。

著者の考える教育力をもつ教師とは,学び続けることができる教師である。
著者の言葉を借りるならば,「あこがれにあこがれる関係づくり」だ。
学ぶことが楽しいことだ,と相手に本気で信じさせることが,教師の使命である(p6)
とし,教師自身が学び続けることの大切さを主張する。

以下,様々な「力」が教師には必要であると随所に述べ,例えば次のようなものが挙げられる。
発問力。文脈力。
専門的力量と人格的魅力。
真似る力,段取り力,コメント力。
見通し力。
待つ力とほめる力。

ここまで来ると,何もかも必要ではないかと思ってしまう。
大切なものが多すぎるので,本全体としても,議論が拡散してしまっているように思われた。

それから,私が共感する部分としては,以下のポイントが述べられていた。

・教育とは,仮説・実験・検証。

・教育界では,「効率の良さ」があまりにも軽視されている(p123)

・たとえば体罰というものは,言葉の力を信じきれていない教師が引き起こすものだ。(p154)
・言葉なんて信用できないとか,どうせ伝わらないというのではなくて,
言葉でかなりのところまで伝わるんだ,と信じていることが大切なのだ。(p155)

特に,最後の引用は,真実はともかく,カッコいいなぁと。


教育力

オレ様化する子どもたち

  • 2007/05/29(火) 03:12:58

諏訪哲二(2005)を読む。

本書は二部構成となっており,
第一部では「子どもが変わり,オレ様化した」現状を著者の長年の教育経験から述べ,
第二部では和田秀樹や水谷修などといった教育(論)者を批判的に検証する。

まず「オレ様化」とは何か。
本書は,子どもたちが「学ぼうとしない」「自己を客観化できない」と指摘する。
つまり,子どもたちは自己を絶対的な存在と捉え,自己の論理において大人と対等な立場へと変化したという。
以下の引用は,「オレ様化」を見事に表現している。

「自分がこう思う」ことはみんなも思っているに違いない(あるいは,思うべきである)と子どもたちは確信している。これが「オレ様化」した子どもたちの真実のひとつである。(p52)

そして,「オレ様化」した子どもたちの具体的な特徴として,子どもたちの「個」の意識がえらくなったので,
教師はうっかり生徒を叱ることができなくなった,子どもたちは他人からの評価を人格否定のように捉える
と著者は指摘する。

p40で近代日本の子どもを「農業社会的」「産業社会的」「消費社会的」
の三段階に分類している掃除の例は分かりやすい。
「オレ様化」の子どもたちは,まさに「消費社会的」行動をとる「いまだ個ならざる個」である。

次に,学校教育の本来的な役割とは何かが問われる。
共同体的な教育か市民社会的な教育か。
社会化か個性化か。
本書は,社会化を目指す共同体的な教育が本来の学校教育の役割であると主張する。

俗に「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人が日本には多いが,
市民形成(「社会化」)のプロセスで潰されてしまうような「個性」は潰されるべきである。(p231)

私も賛成である。
しかし,「消費社会的」な行動をとる子どもたちに対して,
理屈を伴わない共同体的な教育をどのように仕掛けていけばいいのだろうか。
子どもは子どもの論理で攻めてくるから,厄介である。
以下は,そのヒントになる思うので少々長いが引用する。

教師と子どもとの<1対1>の関係は本質的に困難である。なぜなら,子どもの「一」が教師の「一」に見合うものかどうかが疑わしい。(中略)子どもは一対一の関係を求めてくるが,教師は同じレベルの「一」として対応するのではなく,「一」プラスアルファ=「教師」として応対し,あくまでも指導性を確保しなければならない。(pp102-103)

考え方は理解できるのだが,いざ指導の場面になると難しいのだと思う。

また著者は,教育も子育ても贈与が基本であるとする。
私も賛成であり,見返りを求めていては一々教育を考えることはできないと思われる。
しかし,この贈与の概念が近年の親にない,という筆者の指摘は頭に入れておきたいと思う。
さらに,子どもたちが学校外における,メディアの影響力を強く受けているという,
著者の指摘もまた真実であると思われる。
そのため,学校教育や家庭教育だけを取り出して議論する姿勢は必ずしも妥当ではないだろう。

私が本書の中で,最も印象的であったのが,以下の引用である。

子どもたちはみんな「勉強しなくてはならない」ことを知っている。「やらなくてもいい」「やる必要はない」
と思っている「個」はいない。にもかかわらず,みんなが勉強のほうへ動けるわけではない。(p169)

頭では理解できるのだが,う〜ん,もう少し考えてみたい。

よい教育とは「のびのびしていて厳しい」。
きっとその通りだと思う。
しかし,その厳しさはどこに求めればいいのだろうか。
教師の権威か。理屈か。


オレ様化する子どもたち